先祖を探して

琉球王国時代の1400年頃に、沖永良部島の世之主(島主)であったご先祖様を探す活動の記録。

伝説・伝承

Vol.455 美豆之比屋の別の話

Vol.454で書いた「永良部美豆之比屋」の話は、為朝が琉球にやってきたとされる時代(1100年代頃)の出来事でした。 そしてその話の中でも別の一説として触れましたが、三山由来記集の中に、明の永楽帝の時代であった永楽年間(1402-1424年)のこととして、当…

Vol.454 永良部の美豆之比屋とは

玉城城:夏至の日の出には城門に朝日が差し込む 琉球には正史とよばれる歴史とは別に、野史と呼ばれる民間に伝わる伝承があります。琉球が三山時代だったころの歴史的な伝承や記録を集め、それをまとめた史書として、「古琉球三山由来記」というものがありま…

Vol.422 世之主の妾であった真千鎌の屋敷には

Vol.279にヘンダマチガマの伝承①で書いた、世之主の妾として伝承が残る古里地区の娘であった真千鎌(マチガマ)。その真千鎌の子孫である小山家にはお宝が保管されているということでしたが、縁あって島の本家の叔父がその小山家の親族の方と知り合いである…

Vol.420 昭和12年頃の貴重な記録から②

野間氏の本には、島の人から聞き取ったという世之主の母方の情報が書かれていました。口碑によれば、沖永良部島がまだ琉球の支配にあった頃、村ごとに琉球王のもとに貢物を届けていた。その時にはノロの他に生娘が伴われて行くのが慣例であり、ちょうどその…

Vol.419 昭和12年頃の貴重な記録から①

Vol.376の記事で、現在の世之主の墓の納骨堂に安置されている3つの厨子甕について書きました。伝承では世之主と一緒に自害した奥方と長男のものであるということですが、実はそうではなくて3代の世之主のものであったということでした。昭和12年に沖永良部島…

Vol.322 チュラドゥールにまつわる人物

当家のご先祖様が眠っておられるチュラドゥール。このお墓の建築は、数年前に行われた調査によると18世紀ごろということですが、大和式の墓石が並ぶ最前列の東側中央にある墓石が、分家である当家:上花城のものです。この墓石は、1760年に上花城のご先祖で…

Vol.309 琉球の中城にあったユンヌバル

沖縄本島の中城城は世界遺産になっており、日本100名城に指定されている優美で壮大な城です。この城は、1300年代中期に先中城按司の一族が石積のグスクを築き始めたといいます。1300年代後期には南の郭、西の各、一の郭、二の郭が完成。そして1440年の第一尚…

Vol.277 遺老伝説 : 沖永良部島と与論島が征服されていた?

琉球各地に古くから伝わる民話、自然の異変、百姓の善行など、口碑伝説を集めた「遺老説伝(いろうせつでん)」という書物があります。4巻(正巻3巻・付巻1巻)からなっており、142話が収録されています。これは1743年から1745年にかけて編纂された「球陽」…

Vol.254 「山田の爺の伝説」から分かったこと

和泊町内城の世之主の城跡の東側に、山田と呼ばれる地域があります。この場所で生活していたという爺様の伝説をVol.46で書きました。この時には、この長生きをした爺様が当家のご先祖様である池悦のことではないかという考察で書きましたが、この爺様の伝説…

Vol.253 米俵40俵と交換した石垣の石たちのその後

屋号:上花城の2代目であった池悦は、大変に優秀な島役人であったようです。この方は記録上の始祖になる中城の曾孫にあたります。父親の佐久田は長男でありましたが、兄弟が多く分家して本家の屋敷の前に居を構えたようです。その時の屋号は宗家の前に住ん…

Vol.234 恋仲だったミトガネと帯

和泊町玉城という地区に、世之主の恋人であったというミトガネという女性の子孫になられる家があります。伝承では、このミトガネは世之主の恋人ではありましたが、親がその恋を許さなかったそうで結婚には至っていません。ミトガネのお腹の中には世之主の子…

Vol.195 武術が強かった平安統たち

前回書いた「唐馬の角力の由来」という沖永良部島の伝承から、角力が強かったという当家のご先祖さまの平安統の登場に驚きましたが、他にも平安統が強かったことを伝える別の話の記録があります。1913(大正2)年に島伊名重という人が当家に向けて覚書という…

Vol.194 「唐馬の角」の由来

沖永良部島で使われている「無い物は唐馬の角だけ」という表現があります。唐馬とは中国産の馬のこと。何でもそろっている富豪の豊かな生活ぶりを庶民の側から見て言う言葉で、無いのは角だけということで、馬にはもともと角などありませんので、もうほぼ完…

Vol.190 薩摩が上陸した浜は伝承とは違うのか

沖永良部島に薩摩軍が攻めてきたのは1609(慶長14)年3月24日の日の入りの時刻。このとき、沖永良部島には徳之島と沖永良部島の2島を統括していた首里之主と呼ばれた思鎌戸が在島していたといいます。この日は荒波で港に船が入るのは難しいので、沖永良部島…

Vol.173 島唄アンマメグゥと薩摩軍による農業指導

沖永良部島が薩摩の侵攻にあった1609年3月、その日のことを歌った島唄があることをVol.61で書きました。この島唄に出てくる「ヒャントシュウ」、これは当家のご先祖である平安統(ヒャントウ)のことです。歌では平安統衆となっています。住吉の海岸に現れた…

Vol.146 すりかわった伝承

伝承や伝説といったたぐいの話は、ご先祖調査をするにあたっては、記録の少ない過去のことを知る上では重要な情報の1つではあります。私も出来るだけ多くの伝承や伝説が書いてある本に目を通し、人物や出来事、時代背景などの考察の参考にさせてもらっている…

Vol.145 勇敢なる徳之島の兄弟

沖永良部島のお隣にある徳之島についても、当家のご先祖様とは繋がりがあるようで調査を継続しており、少しずつ色々なことが分かってきています。奄美群島は薩摩藩による系図の取り上げがあったということで非常に資料が少ないわけですが、徳之島の方が系図…

Vol.136 伝承と史実の挟間(2)茶上兼とはいったい誰か

伝説の主人公である「茶上兼」。果たしてこの人物が実在したのか?伝説や伝承の中の人物や出来事については、私は全てが作り話しではないと思っています。今に伝わる話の、ある部分は事実、ある部分は偽り。偽りは意図的でなくとも、とらえ方の違いで話が変…

Vol.135 伝承と史実の挟間(1)茶上兼伝説

沖永良部島の伝説の1つに、「茶上兼伝説:ちゃじょうがねでんせつ」というものがあります。この伝説は、島を研究されてる方の様々な本にも掲載されていることが多く、私も以前に読んだことがありました。当時の印象としては、琉球時代と薩摩時代がミックスし…

Vol.71 義本王の墓がエラブに!?

義本王とは沖縄最初の実在王統舜天の孫に当たる人物で、1249~1259年に在位した王です。義本は「ぎほん」と読みます。この王は在位11年54歳のときに退位して英祖に王統を譲っていますが、伝承では即位の翌年から飢饉や疫病が起き、それは自分の不徳から来る…

Vol.61 島唄アンマメグゥが教えてくれた真実

東郷実正さん(大正2年生まれ)が伝承していた「アンマメグヮ」という島唄があります。この唄を歌っていたいた唄者は平成10年まで東郷さん以外はいなかったそうで、歌詞も殆ど知られていなかったそうです。彼は17、8歳の頃、島唄を伝承していた人から手ほど…

Vol.46 山田の爺の伝説

和泊町誌:民族編を読み進めていくと、「口承文芸と芸能」というページがあります。島に伝わる伝説が5話掲載されているのですが、最後のページに「山田の爺の伝説」というのがありました。何気に読み進めていくと、どうもかなり年を取った老夫婦の話のよう…

Vol.44 薩摩軍と粟粥で戦った島民

1609年3月、島津家久は徳川家康に琉球征伐の許しを得ていたので前年秋、軍を整え華山権左衛門尉久高を総大将に、諸勢3000余名、五反帆の兵船100余艘で、3月4日山川港を出航。琉球の属島であった大島・喜界島・徳之島の順に攻める。琉球側は手をこまねいてい…

Vol.34 沖永良部島に逃げ込んだ琉球王の話

島の世之主神社の東側に石橋川という場所があります。海岸からはずっと登ってきた小高い場所になっています。この場所に、戦に敗れた琉球王が馬に乗って逃げ込んできて、追い詰められたのでその場所から西側にある世之主神社の方をめがけて馬に乗ったまま飛…

Vol.27 琉球と呼ばれる理由は

琉球時代から現代に至るまで、南方の島々にはユタと呼ばれる人々がいます。同じような響きを持つユタとノロの違いについては、「3月1日:要家とのつながり」で説明しておりますが、今回はユタさんがおっしゃった「琉球」に関する話を島に在住の知り合いの方…

Vol.8 エラブの地名伝承

世之主神社(世之主城跡)の付近には、島言葉で呼ばれるちょっと珍しい場所がいくつかあります。沖永良部の歴史民俗資料館の先田光演先生(島の歴史や世之主についての研究家でもあられます)に頂いた資料と当家の叔父様が書き残した資料から2つお話ししようと…

Vol.5 逸話のある兜岩

当家は1600年当初から宗家の分家になっています。当時長男だった佐久田という人が、実家は家族が多かったため結婚して家を宗家の前に建てて別立てしたため、屋号を前宗と呼んでいたそうです。本家を継いだのは5男の平安統惟次という人です。当家は本家と分…